道化からピエロに受け継がれたスワローズ応援のDNA

道化からピエロに受け継がれたスワローズ応援のDNA




写真提供:ssanwastars5

東京ヤクルトスワローズが強かった時期というのは1990年代のみ。1978年に球団創設以来の初優勝を遂げるが、その翌年に最下位に沈んでいる。その歴史はほぼ弱小チームのものだ。ただそれが明治神宮球場名物を生んでいることに繋がっている。

どのチームも持っている応援団。ただスワローズだけは、応援の象徴を持っていた。それは明治神宮球場の名物でもあった。

明治神宮球場の名物。応援団長の岡田正泰氏

今でも受け継がれる、岡田氏の応援

東京宮本慎也応燕隊より

傘の応援と東京音頭、得点が入った時だけでなく、7回の応援は今や定番。これはスワローズ創成期から応援を続け、伝説の応援団長となった岡田正泰氏が考案したものだ。

応援団からは「オヤジ」ファンからは「岡田さん」と親しみを込めて呼ばれたツバメ軍団岡田団長。スワローズの応援をし始めたのは1950年代と…Wikipediaに載っている。Wikipediaに掲載されている一球団の応援団長というのは他にはいない。

今でも受け継がれる、岡田氏の応援

東京宮本慎也応燕隊より

江戸っ子の判官贔屓で始めた応援、故人となった今でも語り継がれるとは考えもしなかっただろう。私はもちろんこの「岡田さん」が応援を始めた頃のことは知らない。傘に東京音頭の応援を初めて見た幼い頃、それはすでに明治神宮球場に溶け込んだものだった。

その頃、明治神宮球場の外野は席ではなく芝だった。とはいってもキレイに芝生で染まっているわけではない。観客が踏み荒らすことでほとんどが土と言っても良かった。

それを隠すように、ライトポール際の外野スタンドを緑の傘で覆っていたのが、「岡田さん」が率いるツバメ軍団の応援スペースだ。「応援は強制しない」というのが「岡田さん」のスタイル。参加したい人はポール際へ集まり、野球をのんびり見たい人たちはセンター側に座っていた。移動は自由だった。

負け続けても。諦めない。

1978年に初優勝したスワローズだが、再び低迷期へ入って行った。1980年2位になった以外は、4月で早くも定位置へ座りシーズン終了。最下位脱出が目標となるシーズンが続いた。

チームが弱ければ、スタンドが閑散とするのは当然だ。ただそんなシーズンになればなるほど、「岡田さん」の存在感は増した。相手チームのファンに押される外野スタンド。しかしライトポール際だけは聖域のようにスワローズファンで埋まっていた。

「岡田さん」は私設応援団の団長、本職は看板屋。試合開始からいるわけではない。だいたい7回か8回辺りにやってくる。その登場は内野スタンドにいてもわかるほどだった。数少ない外野のスワローズファンの間でざわめきが起こる。その花道を「岡田さん」が足早にポール際へ向かい定位置につくと、ファンファーレが大きくなる。

「よう!ようよう!」小さな体から良く響く声が聞こえる。スタンドは盛り上がっていく。試合展開は関係ない…というより負けている時の方が多かった。

「岡田さん」は、スワローズとともに弱いチームを応援するファンを愛した。贔屓のチームが負ければ、せっかく球場まで応援に来たのにと気持ちは腐る。スワローズはほとんどそういう試合をしていた頃だ。だからこそ球場まで足を運ぶファンを大切にした。それは岡田さんの姿にも表れていた。

試合中「岡田さん」はグラウンドに背を向けている。視線は試合ではなくファンの方へ向けている。ファンが「来て良かった」と思えるような応援を、というのが「岡田さん」の本分だ。

誰もが持っている傘、知っている東京音頭、お金を掛けず子供から大人までのファンに喜んでもらう。「神様!!勝たして下さい」看板屋なのだからお手の物、そんな旗を振り回していることもあった。

自らが道化になることで、「岡田さん」はファンを楽しませていた。負けていても選手はグラウンドで必死に戦っている。その必死さを際立たせるために道化を演じた。明治神宮球場には、チームが弱くても「岡田さん」と楽しもうとしている人たちが集まった。集う人たちはスワローズファンであると同時に「岡田さん」のファンだった。

グラウンドは人工芝となり、外野スタンドに座席が出来た。「家から持ってきて」と頼んだ傘は、球団公認の応援グッズとなり明治神宮球場で売られるようになった。ただどんなに明治神宮球場の景色が変わっても、「岡田さん」は自分のスタイルを貫いていった。

1992年、2001年のリーグ優勝。そして。

1992年リーグ制覇をしてからスワローズは強豪チームとなり、明治神宮球場を満員にすることも多くなった。それでも「岡田さん」は変わらず、いつもの定位置に立ち声を挙げていた。もはや道化である必要はなかった。強いチームの応援団長、傘よりも東京音頭よりも「岡田さん」の存在自体がスワローズの、明治神宮球場の名物となっていたのだ。

2002年「岡田さん」は、数少ないファンを束ねて応援したいた頃に活躍した若松勉監督の2001年の日本一を見届けこの世を去った。まるで外野スタンドを足早に歩いていた姿をそのもののように、せっかちな消え方だった。

新しい神宮の象徴。つば九郎の誕生

2001年に優勝を遂げたスワローズだが、再びチームは下降していく。そんな中岡田さん亡き後、グラウンドで存在感を発揮し始めたのが、球団公認マスコット「つば九郎」だ。

デビューは1994年だが、その頃にはあまり目立った動きはなかった。他球団のマスコット同様ファンサービス重視の“普通”のマスコットだった。

岡田さん亡き後、応援団は引き継がれたが、傘や東京音頭を見つめる目が分散していった。誰が悪いのではない。いることが当然だった「岡田さん」がいなくなってしまったことで、明治神宮球場にはポッカリと穴が開いた状態となった。その上チームは優勝から遠ざかる。長い間、癒しとなっていた存在の大きさは簡単に埋まるものではない。

そんな中、「岡田さん」とは違うスタイルで、ファンの視線を集めるようになったのがつば九郎だ。

球団公認マスコットであることから、その姿はグラウンドにある。しかし他のマスコットとは違い、良くも悪くも感情表現が豊か。その行動はサーカスにおけるピエロといってもいいだろう。

球場入りは選手と同じか早い場合もある。グラウンドに流れる音楽に合わせダンスを披露。試合前ベンチの円陣に加わるだけでなく、審判団の横に立つこともある。試合が勝利に終われば、選手とともにハイタッチの列に加わる。球団マスコットというよりチームの一員だ。

しかし「つば九郎」はプレーヤーではない。あくまでも勝負の世界、真剣に戦うのは選手たち。それをフォローしつつ、「つば九郎」の舞台となるのは同じグラウンドでも、視線はスタンド。ファンをいかに楽しませるかという戦いだ。

そのためには客いじりもする。話せないが愛用のスケッチブックで行う筆談では毒も吐く。明治神宮球場に訪れたファンを喜ばすためなら、批判を受けてもそれすらシュールに倍返し。「つば九郎」の世界は明治神宮球場、その徹底した構えは、ファン以外にどう思われようと構わないという覚悟が感じられる。

受け継がれていくもの

「つば九郎」にとっては、明治神宮球場に来ているファンがすべて。その人たちが笑い、チームが勝てば一緒に喜ぶことを幸せに感じているようだ。たとえ試合に負けても、ひとつでもお土産を持って帰ってもらいたいと思っているのだろう。この精神は「岡田さん」が持ち続けたものと同じ物として伝わってくる。

スワローズには20世紀に応援方法を確立した、道化を演じた「岡田さん」という応援の象徴がいた。

21世紀となり表現方法は違うが、グラウンドでピエロのように異才を放つ「つば九郎」が登場した。

アマチュア野球の聖地と言われる明治神宮球場。そこには学生野球ならではの伝統があるのだろう。ただ同じ明治神宮球場を本拠地とするスワローズにもレジェンドがいる。他球団と違うのは、伝説となるのが選手だけではなく応援の部門にもいるということだ。

東京オリンピック以降、現在の明治神宮球場はなくなる計画だ。しかし器は変わっても、応援する魂は消えない。明治神宮球場のプロ野球東京ヤクルトスワローズのレガシーは受け継がれていく。



ABOUTこの記事をかいた人

紘野涼

SportsMap公認ライター。野球に関しては、日本初、個人、部外者による特定球団を対象にした有料課金ブログ「スワローズ観察日記R」を展開。休眠状態の「野球ファンネット」のコアメンバー、メインライター、ベースボールタイムズオンライン「アウトサイドレポート」企画、ライターの他、媒体への寄稿もあり。